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江戸じゃない東京の地名からみる歴史

先日、小川糸さんの小説「蝶々喃々(ちょうちょうなんなん)」を読んだ。江戸散歩のメッカとして大人気の”谷根千”こと台東区谷中・文京区根津・文京区千駄木を舞台とした物語。平成の今になっても江戸情緒やレトロ感満載で実在する喫茶店、蕎麦屋、居酒屋、パン屋などが登場して、「行ってみたい!」という気持ちにさせられる興味深い小説だった(即行動しないとすまない派の私は来週末に谷中散歩を企んでいるのだけれども)。

実は私、東京在住22年の、この年齢ではわりかしベテランの東京都民だ。この前の知事選だってちゃんと投票したし、その前も、その前の前も投票した。でも、幾度となく引っ越した土地はすべて市部。よく考えてみたら東京人ではあるけれど、江戸人ではない。この22年間、いわゆる江戸に住んだことがない。人前でえらそうに江戸好きを語っているのに、江戸時代であれば、八百八町の市民権は得ていないということになる。そこで、谷根千と比較すると、てやんでぇ的な江戸時代のにおいがあまりしない自分の足元「江戸でなかった東京」、中でも市部の地名やそこがかつて江戸に対してどんな場所だったのか、調べてみたいと思った。それで今回のスタッフよもやまで書かせていただくことにした。

なぜ江戸はそんなに狭いのか?

現東京都のうち、江戸だった場所はそれほど広い範囲でなはい。徳川家康が江戸幕府を開いて以来行政区画の制度はなかったため、拡大を続けていき、幕府の役人でさえ市街地がどこまでかという考えに相違がでてきてしまったらしい。元禄十一(1698)年に榜示杭(ぼうじくい)という杭を立てて、府内(城を中心にした江戸の市街地)と府外を分けて、ようやく江戸の範囲を決定した。その位置を見ると、現在の東京23区外はもちろんだが、新宿駅も渋谷区や目黒区、品川区のほとんども江戸ではない。三鷹市から渋谷区渋谷に通勤している私は、江戸に触れていないことになる。江戸、遠し!

なぜ江戸はそんなに狭いのか? 市街地って広い方が都市として立派じゃありませんかね、と、江戸の狭さが気になった。調べてみると、江戸の範囲は徳川家康の時代から決まっていたとのこと。江戸のおもな交通手段は、徒歩。江戸城から徒歩で1日で往復できる範囲が、江戸ということになるらしい。Print

なるほど。だから江戸の中には宿場町がないわけだ。内藤新宿、品川宿、千住宿、板橋宿などは、府外すぐのところに位置する。1日で行動できてしまう範囲の街、それが江戸がコンパクトである所以だということがわかった。

江戸ではない東京は府外と武蔵国(むさしのくに)

江戸ではない東京は、江戸時代は府外と神奈川県や埼玉県の一部と一緒の武蔵国だった。明治に入り府外はすんなり東京府に組み込まれたが、市部が東京府になったのは、明治26年になってから。まず明治9年に区画整理され武蔵国は13大区に分けられたが、8〜13大区に現在の東京の市部にあたる部分が含まれていた。それらを26年に東京府に移管した。

江戸がそれだけ狭いのだから、府外や武蔵国は江戸と関わりがあったにちがいない。そう踏んで、いくつかの市部をその地名をカギに見てみることにする。

吉祥寺(武蔵野市)には吉祥寺がない

手前味噌で、私が慣れ親しんだ多摩東部を見てみる。私は現在三鷹市に住んでいるが、武蔵野市に突き出た半島みたいな地区に住んでいるので、武蔵野市の吉祥寺で消費活動を行っている。きちじょうじの「じ」は寺。でも吉祥寺には吉祥寺というお寺はない。この地名は、江戸と深いつながりがあった(前回のスタッフよもやまでも少し触れさせていただいたが)。

江戸の本郷にあった吉祥寺という寺の門前町の住民が振袖火事と呼ばれる明暦の大火(1657年)で家を失い、武蔵野に引っ越してきて開拓した。当時ススキ野原が広がった武蔵野を切り開いて村を作った人々が江戸で親しんだ吉祥寺という名前をつけたという。

吉祥寺の駅からすぐのところに御殿山という地名がある。ここは、徳川三代将軍の家光が鷹狩りをする際に、仮の御殿を建てた場所だからそう呼ばれた。鷹狩りをするくらいの原野だったということがわかる。ちなみに、井の頭公園がある井の頭(三鷹市)という地名は、この鷹狩りに来ていた家光が、神田上水の水源となっているここにある池を、井戸の水源であるので「井の頭」と呼んだことがはじまりという。現在の井の頭池

三鷹(三鷹市)の鷹は鷹狩りの鷹

三鷹市の地名の由来は諸説あるが、江戸に関わるものとしては、江戸幕府の将軍や御三家が鷹狩りをした鷹場が多く集まっているからという説が面白い。御三家の鷹狩りの場所で三鷹。ふむふむ、しゃれっぽくて好き。

三鷹市には「連雀(れんじゃく)」という地名がある。現在は上連雀と下連雀に分かれていて、市内でもかなりの面積を有する。れんじゃくは「連尺」のことで、旅籠などを背負う際の背負子をそう呼んだとか。その連尺職人は江戸時代は神田連雀町に多く集まって住んでいたが、これまた吉祥寺とおなじパターンで、明暦の大火で家を失い、ここに移住してきたことでついた地名だとか。明暦の大火がどれほど破壊的なものであったかがわかる。三鷹

江戸の住民を支えた武蔵野

武蔵野市と三鷹市に次いで他の市の地名の由来を調べていたら、江戸に関係するんじゃないかという私の目論見を大きく外れていた。わたしの目論見は、この2つの市で終わってしまった。つまり、東京の市部で、江戸と深い関わりがあるのは、いわゆる武蔵野と呼ばれた土地だけ。急激に発展した江戸の人口は増え続けたが、人々の生活物資をまかなう生産力はなかった。そこで江戸東部近郊の村から、畑の野菜やエネルギーとなる薪などが提供された。それから飲み水も、玉川上水や神田上水から引いて、確保したという。

市部ではないが府外のことについても述べなければ。江戸八百八町に入っていないが、現在の23区になっている土地とほぼ一致するのが、府外(練馬などの例外もあるが)。前述の明暦の大火で、焼けてしまった江戸の街の復興に、多くの職人や人足が働きにやってきた。しかし、彼らが住む場所が、あの狭い江戸にはない。そこで、府外の、現在の目黒や渋谷、新宿に暮らして、江戸で働いたそうだ。そんなことで人口も増えて、武蔵野の役割が大きくなったと言われている。

江戸時代なんてもんじゃない古い地名の東京市部

さてさて、武蔵野以外の東京の市部は、江戸に関わる地名ではなかったと書いたけれども、これがとても古い歴史に関係している、江戸時代なんてもんじゃなかった。とても興味深いので、ここは、えいやーと、いくつかを紹介してしまいたい。

・調布(ちょうふ)市
読んで字のごとく調の布。この調は、日本史で習った大化の改新以後の古代の租税制度の「租庸調」の調のこと? ーー正解。租=米、庸=労役、調=繊維製品であり、この調の布で調布。調としておさめる布を生産していたところ。過去に9年も調布市に住んでいたのに、こんなことも知らなかった。ここで気になるは、田園調布。現在は世田谷区の高級住宅街だが。なんとなんと、ここも明治時代までは、調布の一部。かつては調布村だったらしい。大正時代に、渋沢栄一らが設立した田園都市株式会社が、この場所一体を住宅地として開発し、イギリスを手本にした駅舎を中心に洋風の街を作っていったので、調布の田園都市ということで、田園調布となったとのこと。

・狛江(こまえ)市
こちらも古代が地名のルーツ。狛江の狛は「高麗」、つまり朝鮮半島のこと。古代に朝鮮半島からの渡来人が多く住み着いた入江(多摩川が流れているから)ということで狛江となった。文字からして、勝手に狛犬な感じと思っていました、大違い。

・府中(ふちゅう)市
ここも古い。もう文字を見て古いとわかってしまった。武蔵国は大化の改新後に誕生した国であるが、その武蔵国の国府が置かれたのがここ。市内にある大国魂神社の敷地にあたるところに、国庁の施設などがあって、現在は発掘をされているので跡地を見ることができる。

・国分寺(こくぶんじ)市
「国分」(こくぶん・こくぶん)という地名は東京都だけではなく、日本各地に存在する。それは、奈良時代に聖武天皇が全国に国分寺・国分尼寺の建立を命じたからだ。武蔵国の国分寺があった場所が現在の国分寺市ということだ。

やっぱり地名は面白い

江戸幕府の将軍は、郊外の村で鷹狩りというレクリエーションを楽しんだとか、江戸の現場で働く人足や職人が府外に住んで江戸に通ったとか、江戸の消費生活を郊外で栽培される野菜が支えたとか、江戸時代の”都市郊外のあり方”が、今と同じというところが興味深い。江戸の町人

それらが現在残っている地名から見えてくるところが、すっかり面白いと思ってしまった。江戸と言いながら古代までさかのぼってしまったが、地名から読む歴史はもっとずっと深く、このままハマりそうなので、またどこかのタイミングで綴らせていただこうと思う。

皆さんも、自分が住む土地の地名を調べてみてはどうだろう。単なる文字ではなく、空間的な広がりをもった何かが見えてくるかもしれない。(写真・文 黒川豆)

参考文献:
「江戸東京歴史散歩3 山手・武蔵野編」 江戸東京散策倶楽部(学研)
「多摩 歴史と文化の散歩道」(TOKIMEKIパブリッシング)
「江戸・東京の地理と地名」 鈴木理生(日本実業出版社)
「まるごと一冊! 東京の地名の由来」 浅井建爾監修(自由国民社)


2016/9/14 更新

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