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日本の神話が今に生きる場所、宮崎を訪ねて

日本全国にはおよそ8万8000の神社があると言われている。祭られているのは、天照大神(アマテラスオオミカミ)をはじめとした神話に登場する日本古来の神から、歴史上に登場する偉人まで新旧それぞれである。ご神体として、山や木、石などを祭っている神社もある。
個人的に、日ごろより神社を参拝することは趣味のひとつであるが、2月に宮崎県を旅する機会があり、初めて足を踏み入れてみたら、土地と神話の結びつきが濃厚であることと、神話に登場する神を祭る神社がとても多いことを肌で感じた。そこで今回のよもやまでは、日本の神話のふるさとのひとつといわれる宮崎県について綴ってみたいと思う

日南で、海幸彦と山幸彦が兄弟げんか

日本の神話で「海幸彦と山幸彦」という兄弟の話を聞いたことがある人もいるだろう。私もその名前だけは知っていたが、ストーリーの詳細は知らなかった。JR九州に、宮崎駅から南へ下る日南線という路線があり、週末限定で「海幸山幸」という名前の観光列車が走る。その列車に乗って、太平洋の陽光を浴びながら日南の海岸線を辿った。その車内で、乗務員から「海幸彦と山幸彦」神話の紙芝居が催された。次のような物語だ。海幸山幸

天上界から降臨したニニギノミコト(アマテラスの孫)の長男は海幸彦、三男は山幸彦。ある日、海幸彦に借りた釣り針をなくした山幸彦は兄に責められ、海神ワタツミのもとを訪れて娘のトヨタマヒメと結ばれ、釣り針を取り戻します。ワタツミから授かった二つの玉で塩の干満を自在に操り、山幸彦は海幸彦を服従させます。海幸彦は隼人族の祖先、海幸彦は天皇家の祖先とされています。(「海幸山幸記念乗車証」より)

この物語は、弟が兄の釣り針を失くしてしまったことで兄弟喧嘩となっている。山幸彦が兄の海幸彦を服従させたのが、現在の北郷町にあたるという。この地方では、現在でもこの物語にちなんで縫い針の貸し借りをしないという習慣がある。釣り針ではなく縫い針に代わってはいるが、神話が現代の生活にまで根付いている例のひとつである。

鵜戸(うど)神宮は生みの神社

さて、兄の釣り針を失くしたにも関わらず、海神の力を借りて最終的には兄を服従させた山幸彦には、続きの神話がある。奥さんになったトヨタマヒメが山幸彦の子どもを身ごもった。トヨタマヒメは「出産の時の姿を見ないでください」と言い、鵜戸神宮付近で皇子ウガヤフキアエズノミコトを産むが、本来の姿(サメと言われている)を見られてしまう。地上にいられなくなったトヨタマヒメは、自分の乳を岩に移し、海の底にあるワタツミノミヤへ戻っていくが、わが子のことが気になって仕方ない。そこで妹のタマヨリヒメを乳母として地上に仕わせるのだが、後に成長したウガヤフキアエズノミコトと乳母のタマヨリヒメが結婚し、初代神武天皇が誕生したと伝えられている。鵜戸神宮は、山幸彦だけではなく、神武天皇誕生の物語と非常に縁の深い神社である。日向灘の岩を穿ってできた洞窟の中に本殿がある鵜戸神宮は、出産をしたトヨタマヒメの胎内を連想させるかのような様子がある。

鵜戸神宮

鵜戸神宮

ちなみに鵜戸神宮は、階段を下りた先に本殿があるという、日本ではとても珍しい神社である。日本にある神社は、高いところにあるかうっそうとした森林の中にあるものが多く、鳥居をくぐった先の階段を上り、息を切らせて苦労して本殿にたどり着くというイメージを持つ人も多いのではないだろうか。

日本海軍発祥は神武天皇までさかのぼる?

ウガヤフキアエズノミコトとタマヨリヒメの間に生まれたカンヤマトイワレヒコ(他の呼称もある)が、神話でいうところの神武天皇である。この記事では、現在の歴史学的な天皇がどうこうはとりあえず忘れ、物語としての神話の世界に浸ってみることとしている。

神武天皇が45歳のとき、兄弟や子どもから「東に良いところがあると聞く。恐らくそこが日本の中心地だろう。そこに行って都を造ったほうがいい」と進言され、ヒコイツセノミコトとヒナヒノミコトという兄弟と共に、三人で日向を発った。これが「神武天皇の東征」と呼ばれている物語だ。

宮崎県日向市に美々津(みみつ)という土地がある。町を流れる耳川河口にある美々津港は、江戸時代は高鍋藩の上方交易港として、明治・大正時代は入郷地帯を後背圏とする物資の移出入港の港町として栄えた。ここにも神話が残っている。美々津が、神武天皇が東征する際に出港した港であるという伝承である。

神武天皇は旧暦8月1日の昼に出港の予定だったが、風向きが変わったため早朝に繰り上げ、「起きよ、起きよ」と周辺の家々を起こして回った。このことから、現在でも旧暦8月1日に、美々津では「起きよ祭り」が開催される。出港まで時間がなかったので神武天皇は着物のほつれに気づいてもなおす暇がなく、立ったまま縫わせた。そのためこの地を「立縫いの里」と呼ぶ。住人たちは出港に合わせて神武天皇ご一行に持たせる餅を作る予定をしていたが、これまた時間がないので、急遽小豆と餅米を一緒について渡した。これを「お船出団子」と呼び、現在でも美々津の名物となっている。宮崎空港のお土産コーナーに「つきいれ餅」というお菓子が売っているが、これも同じである。天皇皇后両陛下に献上されたというこの銘菓、買って食べてみたら、甘すぎない和菓子好きの私好みのお菓子だったということを付け加えさせていただく。

立磐神社

立磐神社

美々津の話しに戻る。神武天皇東征の地とされる場所に、立磐(たていわ)神社という神社がある。そこに「神武天皇御腰懸磐」というしめ縄を張った岩がある。神武天皇が出港の際にこの岩に腰掛けて指揮したとされている岩で、社名の「立磐」もこれに由来している。この神社は神武天皇と航海神の住吉三神を祭っている。

美々津については、もう一つ言及したいものがある。それは、「日本海軍発祥之地」と書かれた碑である。1942年、この碑と両爪錨の像が立てられた。碑文は当時の米内光政内閣総理大臣・海軍大将の筆による。おそらく、第二次世界大戦中に日本人の士気を高めるために作られたものだろう。占領期に碑文が一部連合国軍により破壊されたが、現在は修復されている。20世紀に、海軍の発祥を神武天皇という神話の時代にまでさかのぼったというところが、戦時下の日本の体制をよく表している。

日本海軍発祥の地

日本海軍発祥の地

とんでもなく昔の神様を祭った神社

ここで神話を巻き戻す。日本を作ったのは、イザナギとイザナミという男女の神で、その子どもがアマテラスと神話では語られている。伊勢神宮をはじめ多くの神社には、最初の神としてアマテラスを祭っている神社が多くあるが、宮﨑には、イザナギを祭る神社がある。宮崎市の江田神社には、イザナギが黄泉の国から戻りみそぎをした「みそぎが池」と呼ばれる池がある。この神社から、アマテラス・スサノオ・ツクヨミが誕生したとされている。神話の中で考えても、とんでもなく古い話である。神話

県北の高千穂町には、天岩戸(あまのいわと)神社がある。天岩戸の神話はご存じの人も多いだろう。
神代(かみよ)の昔、空の上に高天原という神々の世界がありました。太陽の神天照大御神(あまてらすおおみかみ)様や弟の須佐之男命(すさのをのみこと)様、その他多くの神々が暮らしていました。須佐之男命様は、田んぼの畦(あぜ)を壊したり馬の皮を逆剥(さかは)ぎにしたりと、大変な暴れん坊でした。あまりにひどいいたずらにお怒りになりました天照大御神(あまてらすおおみかみ)様は、天岩戸(あまのいわと)と呼ばれる洞窟にお隠れになりました。太陽の神様がお隠れになると世の中は、真っ暗になりました。食べ物が育たなくなったり、病気になったりと大変なことが次々と起こります。困りました八百万(やおよろず)〈大勢〉の神々は天安河原(あまのやすかわら)にお集まりになられ、御相談かわされます。御相談の結果天岩戸(あまのいわと)の前で色々な事が試されて行きます。(「天岩戸神社」ホームページより)

高千穂 天安河原神社

高千穂 天安河原神社

この後、岩戸の外で大騒ぎしている人たちが気になって、岩戸を開けてしまい、世界に太陽の光が戻るという神話なのだが。この天岩戸も、八百万の神々がどうしようかと相談するために集まった天安河原も、現在は神社となっている。天安河原には、積み上げられた石が無数にあり、独特の神秘的な雰囲気を醸し出している。神話とはわかっていても、そこに大勢の神が集っていたのかもしれない、という幻想を感じるのも嘘ではない。

高千穂 天安河原の石

高千穂 天安河原の石

まだまだ宮崎には訪ねてみたい神社が多く存在するのだが、1週間程度の私の旅では、あと数か所が限界であった。10社足らずの参拝ではあったが、どの神社でも「神話が現代に生きている」ということを体験できる神社ばかりであった。
お参りして、厄除け・健康祈願・縁結び・家内安全などをお祈りするだけではなく、その神社に残る神話と、その物語と結びついている現代に残る場所、それらを訪ねることができる神社が、宮﨑には多いことに気づく。

かつて、昭和30年代から50年代まで、宮崎は新婚旅行のメッカとされていた。ピーク時の昭和49年に、宮崎市内に宿泊した新婚旅行客は約37万組で、これは同じ年に全国で結婚したカップルの約35パーセントにのぼるといわれている。南国ムードが「遠いところに来た」という気持ちにさせるということもあるが、観光地を訪ね歩くカップルを神話の世界に導き、幻想的で神秘的な気分を演出してくれる場所であったのだろうということも、実際に歩いてみて感じたことだ。これからはじまる新生活の無事を祈りながら、特別な気分にもなれる――。

余寒真っ只中の2月でも温かい陽光のさす宮崎を後にして、まず「古事記」「日本書紀」を日本人なら読んでみてもいいと思った。(文・写真 黒川豆)


2015/3/4 更新

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