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八重山諸島で見た沖縄の歴史と県民性〈スタッフよもやま〉

関東は朝晩の風が冷たくなり、そろそろ厚手のコートが着たくなる季節になりました。マフラーやムートンブーツもよく見かけます。富士山のてっぺんも真っ白だし、冬がすぐそこまで来ているのがはっきりわかります。

そんな折、沖縄県石垣市と周辺の離島である八重山諸島を旅してきました。あらためて、“日本列島は長い!”と実感。だって、連日気温は25度を超え、半そでのTシャツにビーチサンダルでOKなのだから。家から羽田空港に向かうときには厚手のジャケットを羽織っていたのに、11月であることをすっかり忘れてしまったくらい。

沖縄では、食事の時間すら気にせずとにかくゆっくり過ごしました。あせったり時計を見たりする必要がないような感覚になりました。実際、船の出航時間以外、腕時計なんてほとんど見ていないくらい。そうさせる空気が流れています。

沖縄県民はゆったりしていて、待ち合わせ時間もちょっと遅れるのが当たり前、でも待っている方も「なんくるないさぁ」と、いちいち気にしない、そういう時間の流れがあるようです。よく「沖縄タイム」という言葉が用いられます。時間にルーズと悪い意味にとらえられることも時折ありますが、数分おきに来る通勤電車を1本逃しただけでイライラしたりする東京での私のサラリーマン生活からすると、「沖縄タイム」は余裕があってすごく前向きで明るい言葉だと個人的には感じます。

全国47都道府県にはそれぞれキャッチフレーズというものがあります。その数文字~十数文字には、県民性がぎゅぎゅっと詰まっています。沖縄は「ハイサイ沖縄!」、ほら、何か明るいでしょう? とにかく明るくこんにちは! と挨拶、それだけです。47都道府県のキャッチフレーズ(http://matome.naver.jp/odai/2135181664558398901)はすごく興味深いので、みなさんの地元びいき目で、ぜひ一度覗いてみてください。ゆるキャラよりその県民性を示していたりします。

さて沖縄の話し。今回は石垣島のほかに、小浜島、竹富島、そして西表島に行ってきました。シュノーケルをするでも、行きたいところや食べたいものが積極的にあるでもない、ぷらっと旅だったので、各島それぞれの歴史や暮らし、そして人々についてちょっと考えながら時間を過ごしてみました。

石垣島の730交差点の歴史

石垣市の中心部に「730交差点(ナナサンマルこうさてん)」という標識があります。この交差点は日本の国道で最西端にある交差点だそうです。面白い名前の交差点だなと思いタクシーを降りました。角に記念碑も建っています。沖縄返還後から6年後の1978年7月30日に、沖縄県下一斉に、アメリカ仕様の右側通行から日本仕様の左側通行に戻したことを祈念した交差点でした。ほんの36年前の話しです。私が生まれたころ、沖縄はアメリカでした。石垣島 730交差点

1978年まで沖縄県の道路は米国統治のなごりで、「人は左、車は右」となっていましたが、その日を境に「人は右、車は左」となりました。これがわずか数時間で行われたというのが驚きです。通行を左右入れ替えるだけではなく、全部の道路標識も入れ替えなければならなかったのですから。

交通方法が変更される前日の7月29日午後10時から変更当日の30日午前6時までの間、緊急車両やバス、タクシーなどの特定の車両を除くすべての車両が通行禁止および駐車禁止となりました。7月30日の午前6時に消防署のサイレンが鳴らされ、白バイに誘導されたタクシーなどが従来の右側通行から左側通行へと変わったそうです。その一瞬は歴史的な瞬間だったと地元の商店の方がおっしゃっていました。

沿道には、その歴史的瞬間を見ようと朝早くから大勢の人が集まり、右側通行をしてみようと車もたくさん出てきてラッシュ状態になったそうです。これがもし東京で行われたら、と想像してみたら、パニック映像が頭を流れました。こういった状況でも「なんくるないさぁ」と沖縄県民は受け入れたのでしょう。心配された交通事故も増えるどころかむしろ減ったそうです。

小浜島の主要産業の転換

石垣島から船で30分ほどのところに人口約600人の小浜島があります。NHK朝の連続テレビ小説「ちゅらさん」(2001年度上半期に放映)の舞台で有名なサトウキビの島です。島に「シュガーロード」という両サイドに延々とサトウキビ畑が続く道があります。小浜島のサトウキビ

――ところが、2014年11月現在、サトウキビはそれほどありません。島の住民に聞いたところ、「ちゅらさんのころはサトウキビ畑ばかりだったけど、今はほとんど牛を育てる方に島民の生業が変わってきている」とのことでした。

なんと! この十数年でサトウキビ畑は牛のエサである牧草畑に変わっていたのです。小浜島では種牛が育てられていて、牛は一頭あたり50万円の現金収入になるそうです(といっても半分はえさ代に消えるそうですが)。それに比べてサトウキビは、一年に一度しか収穫がなく、しかも台風が来て畑が荒れてしまいでもしたら、収入がなくなってしまう可能性がある不安定な作物です。確かに、暮らしを考えたら牛になりますね。ここで育った種牛から受精して生まれた子牛は、全国に出荷され、有名な前沢牛になったり松坂牛になったりもしています。

牛やサトウキビである程度安定した仕事がありますが、この島は人口が減少しています。小浜島には高校がありません。高校生は石垣島か沖縄本島まで行って寮生活となるそうです。島を案内してくださった方は「離島の子供はわずか15歳で親元を離れなければいけないんです。そして、きっと、もう戻ってきません。でも島の子どもたちがいなくなっても、後を継いでくれる方が別の地域から来てくれればいいんですよ」とおっしゃっていました。小さな島でも、大きく門戸を開いてよそ者を受け入れている、そんな解放感が小浜島にあります。産業の転換や移住者の受け入れから、島民の柔軟さが感じられました。

移住者が増え続ける西表島

逆に人口が増え続けている島があります。イリオモテヤマネコで有名な人口約2000人の西表島です。日本で最大のマングローブの原生林があったり、海を水牛で渡って行ける由布島があったり、観光資源に恵まれている島です。「都会を逃れて、豊かな自然の中で生活したい」という動機で移住してくる人がほとんどとのことですが、これは他の移住人気地と一緒です。西表島が移住しやすい特徴は、島の歴史背景にありました。西表島の海を渡れる水牛

西表島への移住の歴史は古く、琉球王国時代には王朝の財政建て直しのために、第二次世界大戦中は疎開先として、そして戦後は復興のために、多くの人が島に移住してきたといいます。

しかし、高温多湿の亜熱帯であるこの島は、かつてマラリアが蔓延する有病地として恐れられていた時代があり、国や軍部の命令で強制的に移住をさせられた人々の多くはマラリアで亡くなったという悲しい歴史もあわせもちます。戦後、マラリアは撲滅され、移住政策により住環境も整い、今では観光業に携わる沖縄県外からの移住者も多く住むようになりました。豊富な自然から観光産業が発達し、移住者の仕事も豊富にあります。また、寮など完備する会社が多いので移住が簡単にできるそうです。西表島だけに関係することではありませんが、石垣島の空港が大きくなったことも観光が発展した理由のひとつです。離島への玄関口である石垣空港はかつて滑走路が短く、小型飛行機しか降りられませんでした。しかし2013年に新石垣空港ができてからは中型機も到着でき、羽田等から直行便もできました。昔より気楽に離島に来る観光客が増え、島々を巡るツアーも増えました。西表島のマングローブ

さて、順調に増えている西表島の移住にもひとつ問題があります。どうも男性ばかりが移住してくるそうです。そして深刻な嫁不足。これではせっかく移住者が増えてもこの先人口減少が起こるかもしれません。観光資源が豊富といっても相手は大自然。ボートの運転やカヌーのインストラクター、水牛の世話や島の整備。どうしても力仕事になりがちです。女性ができる仕事を作って女性の移住者を増やすことが、西表島の課題とのことです。

今回、地元びいき的視点で、八重山諸島を見てみましたが、沖縄県民の奥底にあるのは、大和魂ではなく琉球魂なのだとわかりました。琉球王国が日本国になり、そして一時期アメリカとなり、また日本国に戻り――。この県の歴史は他の都道府県とはまったく違う壮大さをもち、基地問題など深刻な課題もありますが、他の地域とは一線を画したたくさんの魅力も生まれています。私たち本州の人間が、何度も訪ねたくなる理由が垣間見えた旅でした。

旅に出たとき、いつもと違う視点で見てみると、アクティビティや食事の思い出だけではない何かが心に残るようです。

(文・写真 黒川豆)


2014/11/18 更新

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