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信仰から生まれ、時代と地域の習俗に育てられた雛人形

あかりをつけましょ ぼんぼりに~、お花をあげましょ 桃の花~、五人囃子の笛太鼓、今日は楽しい ひなまつり~♪
この歌が耳に入ってくる季節となった。3月3日は桃の節句、いわゆる雛祭り。女の子の幸福と成長を願うお祭りで、その歴史は古く、起源は平安時代までさかのぼる。

陰陽五行説の暦が政治を動かしていた平安時代、栄華をほしいままにした藤原氏は、もともと中臣氏の出自である。中臣氏は古代から祓い(はらい)と禊(みそぎ)といった神事を司る氏(うじ)。神事の終りには、身代わりとして人間の形をした「ひとかた」を川に流し捨てる信仰があった。これが雛人形のルーツと言われている。現在でも、鳥取県のある地域では、流し雛という形でこの儀式が残っている。雛人形誕生までには、こうした呪術的な信仰が潜んでいる。

人形作家で、重要無形文化財「桐塑人形」保持者である林駒夫氏(人間国宝・京都在住)は、雛人形のことを「神に等しく畏敬すべきもの」と語っている。「“おひなさんは神さんや。子のもてあそぶもんやない”京都の大人たちはよく言いました。人形=呪術的な力、畏れと荘厳であり、ある種呪術的な力でもありました。ですから私は雛人形というものは、けっして愛玩するものではなく、神そのものだと思っています。」(『雛人形と武者人形――飾る知識と楽しみ方』大橋 弌峰著・淡交社)

林家では、雛人形を蔵から出して緋毛氈の上に並べるのは、代々当主の役割だという。京都御所の近くの老舗料理旅館を営む当家は、御所の膝元で暮らす京都人として雛人形の歴史や伝統を現代まで守り伝えている。その伝統はしっかりと信仰の要素を孕んでいる。

雛人形の顔も衣装も装飾品も、たたずまい(立っている、座っている)も、時代や地方によってさまざまである。もともと公家の神事「ひとかた」がルーツと述べたが、公家の住む京都で誕生した雛人形が全国的に広まったのは江戸時代のこと。泰平の時代に武士以上に財力を持つようになった江戸の商人たちが、雛人形を買い求めた。この頃になると専門の職人たちにより大量生産され、信仰というより工芸品に代わって行った。京都から江戸へ販路を広げてきたのが次郎左衛門雛(じろうざえもんびな)であったと言われている。次郎左衛門雛は、もともと京都の人形師、雛屋次郎左衛門が創案した人形。丸顔に引目鉤鼻(ひきめかぎばな)の顔立ちが特徴だ。素朴さの中にも雅な風情があり、主に上流階級で用いられた。宝暦11(1761)年に、江戸日本橋に進出し、粋と新しいもの好きの商人たちの支持を得るようになったらしい。江戸中期には士農工商の身分制度も崩れはじめ、裕福な町人も増えてきている。これらの町人たちも雛人形を購入して飾るようになった。江戸から各街道を通って各地に広まっていくにつれ、その土地の習俗や行事になじみ、地方の個性が生まれたと考えられる。

江戸時代の多摩郡江古田村(現東京都中野区江古田)の名主であった山﨑家は、江戸時代から明治・大正を経て昭和初期までの雛人形を所有している。代々の夫人が嫁入り道具として持参した雛人形6組と御所人形、雛道具を合わせた七段飾りは、高さは鴨居を越え、幅も二部屋を要した。雛段の組み立てはその都度大工に頼み、飾り付けは当主婦人が中心となって、親戚が集まって手伝ったという。これらの雛人形は中野区に寄贈され、中野区立歴史郷土資料館(中野区江古田)が所蔵している。2月8日(土)~3月9日(日)まで企画展「おひなさま展」として一般に公開されているというので、さっそく見に行って来た。雛祭り 地元びいき

山﨑家が所有していた最古の雛人形は、江戸時代のあの次郎左衛門雛であった。写真上から二段目中央に座っているのがそれである。他の人形が小顔の細面であるのに対して、ふっくらした丸顔をしている。これが、宝暦から寛政年間までの約30年間江戸の人気を独占した雛人形である。目を見開いていないので、その表情が読み取れない。だが、気品に満ちた表情と300年以上前の空気を静かにまとっている荘厳さがあり、真ん中に鎮座するにふさわしい人形だと思えた。なぜか他の人形は目に入らず、この男雛女雛を、私はしばらく眺めていた。雛祭り 地元びいき地域色という点で、この雛飾りには珍しい調度品がある。下から二段目左から四点目に「鯉桶」がある。鯉は日本人にとって身近な淡水魚だが、江古田村は海から遠いため、お祝いごとには、鯛の代わりに鯉を届けるという習俗があった。それがそのまま雛道具に反映されている。雛飾りの調度品からは、その地域の人々の暮らしを覗き見ることができて面白い。雛祭り 地元びいきまた、地域間の交流も、雛飾りから見ることができる。下から一段目の磁器皿や猪口は、雛飾り用にわざわざ肥前で制作された19世紀前半の古伊万里であるという。江戸江古田村の山﨑家の当主自身も、遠く肥前から伊万里焼を取り寄せて愛でていたのだろうか。おままごとのようなお皿ひとつにも、うまく表現できないが、何かロマンのようなものを感じてしまった。

これは東京都中野区の雛飾りの個性であり、このような事例が日本各地には数えきれないほど存在しているはずである。雛飾りを見る際に、地域色探しをしてみてはどうだろうか? 自分の地元ならではの習俗を緋毛氈の上のどこかに見つけることができるかもしれない。3月3日を過ぎて雛人形が片付けられてしまう前に、ぜひ。

(文・写真 黒川豆)


2014/2/19 更新

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